「痛々しいですね、その体」
二人きりになった須藤があゆに向かって微笑んだ。
その瞳はほんのわずかな悲しみが宿っていた。が、下向き加減のあゆはそれに気づくことができなかった。
あゆはじっと見つめてくる須藤の視線に耐えられず、そっと窺うように見返した。
まだ話したこともないし、親しいわけでもない。 だが、妙にいつも見られているように感じるのはなぜだろう。あゆは警戒しながら小さく返事をする。
「お、お気遣い……ありがとうございます」
「無理はしないでください」須藤があゆの頭に手をポンと置く。
あゆは驚いて須藤を見上げた。こんな風に誰かに頭を撫でられるのはいつ振りだろう。
あゆは気恥ずかしくて俯いてしまう。その顔はみるみる赤くなっていった。
「先公のくせに何してんだよ!」
突然、廊下中に響きわたる程の大きな声がとどろいた。
二人は声の方へ振り向く。そこには、同じクラスの大川大地が物凄く鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
こ、恐い。あの目は苦手だ。
あゆが一歩後退する。怒っている様子の大地はどんどん近づいてくる。
あゆの目の前に立った大地は、須藤の腕を勢いよくつかんだ。「生徒にこういうことしていいのか?」
大地が睨んでも、須藤は平然と柔らかな微笑みを向ける。
「お気にさわったのならすみません。
どうも、私は節度がないようで。 木立さんは一生懸命で頑張り屋さんなので、つい」大地のこめかみに血管が浮き出るのが見えた。
あゆはこの場から逃げたかった。なぜ私はこんなことに巻き込まれているのだろう。
「そういうことを、教師が言っちゃ駄目だろうがっ」
大地の怒りが頂点に達しようとしているとき、あゆの恐怖は頂点に達していた。
あゆの顔が青ざめていく。
その様子に気づいた須藤がわざとらしく言った。「あ、そうそう。私、教頭先生に呼ばれているんでした。今思い出しました。
では、急ぐのでこれで」わざとらしい台詞に、大地があきれた表情で須藤を見つめる。
須藤はそそくさとその場から離れていった。
「あ、てめえ、逃げるな! 話は終わってねえ!」
大地が須藤の背中に向け、叫ぶ。
須藤は二人にひらひらと手を振ると姿を消した。「逃げたな、あの野郎……」
大地はまだ怒りが収まらない様子で、須藤の消えた場所を睨んでいる。
あゆはこの場から早く去りたかったが、恐くて足が動かなかった。
「……大丈夫なのか、体」
大地が静かに口を開いた。
さっきの口調とは違う優しい声音だったので、驚いたあゆが顔を上げる。あゆと大地の瞳が交わる。
そう言えば、あゆは大地のことを怖がってばかりで、しっかりと目を合わせたこともなかった。
こうして見ると、優しい目をしているんだな、とあゆは大地の瞳をまじまじと見つめた。 すると大地の顔がみるみる赤くなっていく。「な、なんだよ、そんなにじっと見るな」
照れて顔を背ける大地は、全然怖く感じない。
それどころか、なんだか可愛くさえ思ってしまったことに、あゆは驚いた。 意外な一面を発見。河川敷に広い原っぱがあり、その中心に大きな木があった。 春には桜が咲き誇る。 今は緑葉が茂り、その葉が風になびくたび自然の音を奏でていた。 葉の隙間から零れる太陽の光が、地面に綺麗な模様を描いている。「あの時と変わらないなあ、懐かしい」 大地が嬉しそうに伸びをし、原っぱに大の字に寝転んだ。 あゆもその隣に腰を下ろす。「私、ここが大好きだった。 よく悲しいことや辛いことがあると来てたんだ。 そして、大地と出会った」 夕日が水面に反射してキラキラと綺麗に輝いていた。 それを見つめながら、あゆは懐かしそうに語る。「家でも学校でも居場所が無くて……寂しくて、辛かった。誰かに傍にいてほしかった。 そんなとき、大地がいつも傍にいてくれた。 たわいもないことを話したり、一緒に遊んだり、そんな普通のことが嬉しくて、大切だった。 ただ一緒にいるだけで、私はすごく救われてたよ」 あゆが語る姿をじっと見つめていた大地が、ふいに起き上がる。 そして、あゆの肩を抱くと自分に引き寄せた。 あゆは驚いて大地を見つめる。彼の頬はほんのり赤く染まっていた。 大地と密着したあゆの心臓がうるさく音を立て始める。「俺だって、おまえといるの楽しかったよ。 一緒にいると時を忘れたし、別れの時間になるといつも寂しかった。 俺はおまえの嬉しそうに笑う顔が好きで、見てると俺まで嬉しくなった。 なのに、こっちに戻ってきたとき、その笑顔は曇ってて……俺の好きだったあの笑顔はどこにもなかった。 すごく悲しくて、悔しかった。 俺がずっと側にいたら、その笑顔を守れたかもしれないのに……そう思った」 大地は真剣な眼差しをあゆに向ける。「俺、おまえを守りたい。あゆがまた心から笑えるように。 ……俺に守らせてくれ。 そりゃ、俺は特殊な力もないし、選ばれた人間でもなんでもない。足手まといになるかもしれない。 でも精一杯守ってみせる。……だから一人で頑張るな。 辛いとき、疲れたときは、俺を頼ってほしい」 あゆは大地の顔を見ていられなくて、顔を背けた。「どうした?」 大地が慌ててあゆの顔を覗こうとするが、あゆは大地から顔を背け続けた。 嬉しくて、嬉しくて、どんな顔をすればいいのかよくわからな
「あゆ!」 突然自分の名前を呼ばれ、ビクッとあゆの肩が上がった。 振り返ると、大地がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。「……大地か、びっくりした」 あの幼馴染の男の子が大地だとわかってから、二人の距離は急速に縮まっていった。 会えなかった時を埋めるかのように、二人は磁石で引かれ合うがごとく側にいることが増えていく。 お互い傍にいることが嬉しくて、居心地が良くて。幸せで。 そんな日々を送る中、いつの間にか自然とお互いのことを名前で呼び合うようになっていた。「何で一人で帰っちゃうんだよっ、一緒に帰ろうって言ってるだろ?」 大地が息を切らしながらあゆに視線を向ける。 その表情は少し拗ねていた。「だって、いつも一緒に帰っていたら周りに誤解されるじゃない」 あゆは大地から視線を外した。 本当は自分を探して追いかけてきてくれることがすごく嬉しいのに、素直になれない。「いいじゃねえか、何て思われても。それに……誤解じゃないかもしれないだろ?」 「え?」 あゆが聞き返そうとしたそのとき、「だーいちっ」 突然現れた美咲が、いきなり大地の背中に抱きついてきた。「おまえなあ、いつも急に抱きつくなって言ってるだろ!」 大地が美咲を離そうとして体を左右に振る。 美咲は振り子のように揺れながら、大地にギュッとしがみつくと笑った。「もう、大地は照れ屋さんなんだから」 「な、違う! 離れろっ」 大地の背中にピタリと体を密着させ、美咲はあゆに余裕の笑みを向ける。「木立さん、私も一緒に帰っていい?」 あゆはなんだかモヤモヤしたが、それを無視して美咲に微笑んだ。「どうぞ、私は一人で帰るから。さよなら」 大地を軽く睨んで、あゆはさっさと一人で行ってしまう。「ちょ、待て! あゆ」 美咲の耳がピクッと動く。「大地、あの子のこと、“
「ふん、つまらないな……」 先ほどから屋上の入口付近で二人を観察していた京夜は、不機嫌そうにつぶやいた。「あいつは俺のおもちゃなのに――変な男が周りウロチョロされたんじゃ迷惑だ」 京夜は大地を睨む。「さて、どうするかな」 手に持ったリンゴを放り投げ、キャッチする手前でリンゴは消滅した。 京夜は楽しそうに笑った。「こんなところで何をしているんですか?」 気づけば、京夜の後ろには須藤が立っていた。 こいつ! 何も気配を感じなかった! 警戒しながら、京夜はいつも通り優等生の笑顔を須藤に見せる。「……いえ、屋上で新鮮な空気を吸おうと思って来てみたら、先客がいたので戻ろうと思っていたところです」 笑顔のまま軽くお辞儀した京夜は、階段を下りていく。 あいつ、前から読めない奴だと思っていたが、要注意だな……。 京夜は横目で須藤を睨んだ。 京夜が去っていくと、須藤は短いため息をつく。「うちのクラスは癖のある人が多いですね」 「先ほどの者は魔族ですか?」 須藤の足元にはいつの間にかチワの姿があった。「そうですね、かなりの実力者だと思います。 木立さんのことを気に入ってずっと観察しているようですが、今後どう行動するか私も観察中です」 「そうですか。……あの、今回のことであゆには何もお咎めないですよね?」 チワは心配そうに須藤を見上げる。 あゆの正体がバレてしまったことは、今回が初めてだ。天界がどのような行動をするのか予測がつかない。 不安だった。これ以上、あゆが傷つくことになってしまうことをチワは恐れていた。 そんなチワの心境を察してか、須藤は優しく微笑む。「大丈夫。大川君が黙ってさえいれば、それでいいとのことです。 これも普段から木立さんが頑張っているから天界も容認したのでしょう」 その言葉を聞いたチワはほっと胸を撫で下ろし、遠く
十年前……。 あの大きな木の下で、いつも俺達は会ってた。 どこまでも続く青空、雲は一つもない。 風が吹くと、ざあっっと大きく草木が揺れる。広い原っぱには緑の絨毯が広がっていた。 その中央に一本の大きな木があって、その存在を証明するかのようにそびえ立っていた。 木にもたれかかりながら、大地は大きく伸びをする。 新鮮な空気をお腹いっぱいに吸い込み、息を吐いた。 暖かな日差しが体に降り注ぎ、体がポカポカと暖まっていくのを感じる。「……気持ちいい」 原っぱの上で、大の字に寝そべる大地。 その瞳には、可愛らしい少女が一生懸命花を摘んでいる姿が映っていた。 花を摘み終わったあゆが、嬉しそうな笑みを向け大地に近づいてきた。「はい、あげる」 あゆの手には、原っぱで摘んだ色とりどりの花が握られていた。 それを大地の方へ差し出す。「なんだよ、こんなのいらねえよ」 大地は格好つけてそっぽ向く。 すると、あゆが今にも泣きだしそうな表情になり、慌てて大地は花をあゆから奪った。「しょうがねえから貰ってやる」 あゆの顔がぱあっと明るくなり、「ありがとう」と可愛く微笑んだ。 大地はドギマギして照れ隠しに俯いてしまった。 俺はいつもおまえに振り回されてばかりだった。 その表情、仕草、一つ一つが俺を翻弄する。 二人でいると楽しくて、とても穏やかで……。 いつまでもこんな時が続けばいいと思ってた。 そんなある日のこと。 俺は喧嘩していて、偶然あゆと出くわしてしまった。 本当にたまたまだったんだ。 いつも、あの原っぱでしかあゆとは会ったことなかったのに。 俺が大勢相手にやりあっていたから、俺を守りたいって思ったのか――あゆは小さな体を精一杯大きく伸ばして俺の前に立った。 いつもは弱気で臆病なあゆが、その時ばかりは年上
「あの、それじゃ、私はこれで」 なんだかいたたまれない気持ちになったあゆは、さっさとこの場を去りたかった。 これだけの奇想天外な出来事をすんなり受け入れてくれた大地には、驚きと共に感謝もしている。すごく懐の大きな人だと感心した。 でも、本当のところがわからない。 もう、この前ように普通には接してくれないかもしれない。 こんな訳のわからない、得体の知れない人間と一緒にいたいと普通思わないだろう。 さっきの話だって、本当に信じているのかどうかなんてわからない、適当に返していただけかもしれない。 なんで私はいつもこうなんだろう……先に傷つかないための予防線を張ってしまう。 本当のところなんて本人にしかわらないのに……。 弱い自分――傷つきそうなことからは、さっさと逃げ出そうとする悪い癖。「なあ」 大地が唐突にあゆに声をかけてきた。 一人ふさぎ込んでいたあゆが大地の方へ顔を向ける。「あのさ、俺……これからは木立のこと、手伝ってもいいか?」 突然の提案に、あゆの身体は硬直し動きが止まる。 え? 今、なんて言った? あゆは自分の耳を疑った。「あのときは美咲が心配で、美咲のことしか見えてなかった。 まさか相手が木立っていうのも知らなかったし、腹刺されたのがおまえってわかったときは、本当にショックだった。……後悔した。 木立の力になりたい、守りたいって思ったんだ」 大地は真剣だ。その強い想いは、あゆの心にじわっと染み渡っていく。 彼は本気で心配してくれている、そう思った。「俺は特別な能力なんてないし、選ばれた人間でもない。 だから役には立てないかもしれない。それでも傍にいて……支えたいって思う。 ほら、一人より二人の方がいいだろ?」 大地の気持ちは嬉しかった、すごく、すごく。 自分のことをこれほど大切に思ってくれる人なんて、いないと思ってたから……。 だから、余計に。
「え? 犬? どこから……」 突然現れたチワを、大地は大きな目で穴が開くほど見つめている。 その視線を軽く受け流し、チワが淡々と話し出す。「大川大地、私は天界からやってきた使い魔のチワ。 あゆと共に魔界からやってきた魔族と戦い、人間を救っている」 チワワがしゃべり出したことに驚き、開いた口が塞がらない大地が急に大声を出した。「犬が、しゃべってるっ!」 その言葉に、少しムッとしたチワは不機嫌そうな声音に変わった。「悪いか? 世の中にはおまえが知らない世界がたくさんあるということだ。人知れず悪魔と戦うあゆのような存在もな。 おまえたちがのうのうと生きている世界では、悪魔が人の心の弱さにつけ込み、魂を食らおうとしている。 魂を食われた者は、本来の自分とは違ってしまう。純粋で綺麗な心は消え、本来なら奥底に隠している醜い部分が露わになる。 そんな存在ばかりになれば、この世界の秩序は乱れてしまう。 ここまで言えばおまえみたいな馬鹿そうな奴でも、言っている意味はわかるだろう? そういう存在から人々を守るため、天界があゆを選んだ。 あゆは人々のために、悪魔と戦っているのだ」 目の前で起こっていることに驚きつつ、何とかついていこうと努力する大地。 あゆとチワを交互に見ながら一人何やらつぶやいている。 混乱する頭を整理しているようだ。 そんな大地の様子を憐れむように見つめたチワが、一つ咳払いをしてから話し出す。「本来なら、一般人のおまえにこんなことを知られては問題なのだが。 昨日あれだけ見られてしまってはどうしようもない。 上には報告して確認を取った。 おまえがこのことを口外しないと誓うなら、おまえの記憶はそのまま残る。 もし口外しようものなら、昨日のことは記憶から一切なくなる」 チワの顔は真剣そのものだ。 天界が下した判断は絶対で、誰にも覆すことはできない。 ここで、大地が反発するようなら、何のためら